多言語脳はどこに育つか
かねてから、日本語や英語で考えて翻訳しなくてもスペイン語で考えて話せるようになれたらいいなぁ…と考えていた。それが少しずつ叶いつつあるのはうれしい。
ただ、日本語、英語、スペイン語の3つを行き来するのは相変わらず難しい。
ちょっと難しい内容だから英語で話そうかな…と思って話しはじめると「あれ、これ英語でなんだっけ…スペイン語ならわかるのに!」というむずがゆさを感じたりする。しかもこれが「ビジネスって英語でなんだっけ(※ビジネスです)」みたいなごく基礎的な単語で起きる。
この時の脳内のイメージはこんな感じ。
日本語と英語の間に自分がいるときは、スペイン語に切り替えるのがちょっと大変だし、英語とスペイン語で話そうとしているときに日本語が入ってくると言葉が出てこなかったりもする。上図でいう、コーナリングが難しい感じ。
この図の中に3か国語をどれも満足いくように話せる「多言語脳」があるとしたら、ここにできると思っていた。
けど、現実は違う。こういう感じ。
急に立体になるのは卑怯だと思う。自分でもこんな感想を抱くとは思わなかったけど、本当に「立体的な難しさ」を感じているのだから仕方ない。今のところ、どこからも遠い。なので、3か国語すべてに注意を払うより、どれか2つに集中する楽さに流されそうになってしまう。
恐ろしいことに、日本語すら、使わないと忘れてしまう。ブログ記事を書くたびに、まとまった文章はいきなり書けるものじゃないなぁ…と思う。そして回を追うごとに下手になり、構想に時間がかかり…。でも、一度も考えたことがない内容をいきなり書いたり話したりはできないと思っているので、今こうして考える時間をとっていることはいつか何かにつながると思う。
いわんや外国語をや(すかさず日本語を練習)。
「よくわからんけどなんか素敵…」と思いながら聞いていた洋楽の歌詞が、ある日突然聞こえてくるようになったりする。こういう経験を理由に「打ってから響くまでが長いなぁ…脳にハエが止まるほどトロいのかなぁ…」と自分にがっかりしていた。
でも、最近少し考え方が変わってきた。たとえば、小さいころにあんなに自転車の猛特訓をしたのに、一度できれば「なんで転んでばかりだったんだろう?」と思う感覚。逆上がりの仕組みが、回れるようになってから遅れて理解できる感じ。これを「理解が遅い!」と嘆く人よりは「すべての苦労はその一瞬のひらめきのためにあった」と思う人の方が多いような気がする。語学を頑張る仲間を見ていると、私たちの抱くもどかしさは「ひらめく準備期間」で大部分説明がつきそうに思う。
最近よく、深い井戸に一滴ずつ水をためている途中を想像する。自分が注いだ水が底に届いて「ぽちゃん」と音をさせるまでに時間がかかるのは、自分が満たしたい井戸がそれほど深いから。そして、さっき書いた図形の高さが、井戸の残りの深さのように思える。だとしたら、井戸が深い=目標が高いのは必ずしも悪いことではないのかも。
と、ここまで考えて友人に教わったカタルーニャ語の格言を思い出した。もう一度書いておく。
De mica en mica s'omple la pica.
シンクは少しずつ満たされるという意味。雨だれ石を穿つとか、ちりも積もればみたいな感じだけど、水をためるという発想はこれを聞くまでなかった。きっとこのことわざの影響で、こんな考え方ができるようになったと思う。いくつになっても、いろんなことを吸収して生きている。
今じたばたしていることも、きっとあとから自分の何かになるはず。育て多言語脳。