それを「理詰め」と呼ばないで
最近DELEの試験対策講座をとる中で、ネイティブの先生方に作文の添削をしてもらう機会が怒涛のように訪れた。100語~180語の作文を20本くらい書いたと思う。
それだけ添削をしてもらうと、自分の間違いの傾向がわかってくる。恥ずかしながら、手直しを受けたものの割合は超ざっくりだけどこんな感じ。
前置詞はまだ授業で体系的に習っていないし、語彙は「こう言いたいときはこの表現の方が自然だよ」みたいな話が大多数なので、まあ仕方がない。時制も、線過去と点過去の違いに悩んでいた頃を思えばかなり間違えなくなった方だと思う。スペルミスにはかなり危機感があるけど。
concordanciaというのは、性数の一致みたいな、文法的な一貫性のこと。「ここが違うよ」と言われればすぐわかるのに、まだまだ間違えてしまう。
冠詞は、必要な時につけていなかったり、必要ない時に使っていたりした例。正直これが一番多かった。そして「ここが違うよ」と言われても、あまり理由がピンとこない。
なので、一番手直しに時間を割いてくれる先生に「冠詞がわかんないんだけど…」とかなりまとまった量の質問をしてみた。
「以前、こういう文例で冠詞を使ったらいらないと言われた。だから今回使わなかったのに、必要だって手直しされた。この2つの文にはどういう違いがあるの?」みたいな感じで。
その先生は普段通りかなり丁寧に説明してくれたんだけど、最終的に「言語は数学じゃないんだよ。ロジックが通らないこともよくあるし、難しく考えないで気長にやれば自然と身に着く。この頻度のミスなら何でもないよ」と、なんかいい話っぽくまとまってしまった。間違いの4割はこれなんだが。
もちろん異論はない。優しい先生だから、励ましてくれたのかな~と理解はしている。でも、母語でも冠詞を使う人たちは、間違え方に一定の規則(というか母語の影響によるある種の一貫性)があると思う。でも私にはない。うすぼんやりと受験英語の知識が残っている部分があるだけ。なので、やみくもにトライしてはランダムにエラーが出るような感覚になる。鉛筆転がしと変わらない感じ。
だから、自分の小さな間違いがどういう意味の違いを生むのか、私の言ったことがどんな情景としてイメージされるのか、フィードバックがほしいなぁと常に思っていた。スペイン語での世界の見え方を知りたいと思う気持ちを、「言語を数学としてとらえ、ロジックで理解しようとしている」と言われると若干むなしい。気長に蓄積していくことは大前提として、+αの経験値も欲しいから、自分の間違いから学びたいだけなんだよ…
スペイン語と言えば、動詞の活用と時制が難しいという印象を多くの人が持つし、実際そこがスペイン語のキモだとも思う。だから、そのあたりの説明はかなり充実していて、動詞がらみの間違いの方が優先順位は高いだろう。ただ、そのメインストリームから離れたところで悩んでいることを、重箱の隅をつついているだけのように思われるのは悲しい。
日本語学習者のお手伝いをしているときに逆の立場になることはままあるけど、やっぱり「そんな理詰めで考えないで」とは言いたくない。違いをうまく説明できなかったとしても、責任ある回答ができなくても、「自分にとってこういうイメージの違いがある」くらいの回答はしたい。
というか、そういう回答でいいから欲しい。