がんばるせろな(仮)

夫のバルセロナ留学についてきた30代。コロナ禍のスペインをじたばた生きてます

2021年のスペインで、小泉八雲と邂逅した話

 先日、スペイン語の参考書が欲しくてグラシア通りの書店に行ってみた。そして、見つけてしまった。

 

 入ってすぐの平置きコーナーに、でかでかと「KOKORO」の金文字。夏目漱石の「こころ」がスペイン語で読める!と思って買ったのだけど、恥ずかしながら超勘違いだった。著者紹介ページまでたどり着いたところで気づいた。これは、ラフカディオ・ハーン先生のほうの「心」でした。夏目漱石作品の外国語訳はかねてから探していたけど、まさか小泉八雲の著作にバルセロナで出会うとは…。

 知り合う方々に「日本のことを教えて」と聞かれても表面的なことしか言えず、なんとなくワンピースやナルトや鬼滅の話をして終わる…というパターンに困っていたこともあり、帰国前に少しでも読めるようになろう!という目標を立てた。書かれているスペイン語をまるごと吸収して、人に話して身に着けられたら最高だなぁ…などと、皮算用が止まらない。

 海外で知り合いがいない環境だと、こんな間違いすらもすがるべき縁のように思えてしまうから面白い。

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 しかし、「日本」ジャンルの代表が、100年前の人が書いた本だったなんて。近時の日本について書いた本に需要がないのか、ラフカディオ・ハーンの考察を超えるものがないのか。傑作なのは間違いないのだろうけど、複雑な気分だし、とても気になる。

 語学学校にしろ、夫の留学先の人にしろ、日本についての知識はさほど持っていないか、知っていてもステレオタイプどまりの人が平均的だ。そして、そんな人たちはもちろん、少し日本のことを知っている人たちさえも、すでに知っていることよりも、私から生で聞く話を大切にしてくれる。なので、「今この場所では自分が日本代表」「彼らのなかで私の話はラフカディオ・ハーンの記述と同じくらいの重さで扱われるかも」という妙な責任感がある。となると、彼らの期待には誠実に応えたい(自分の帰属意識の濃淡はまた別の話なのでいったん置いておく)。

 

 けれど、何の手助けもなく、自国やその文化を客観視するのは難しい。長所も短所も、時には自分の価値観さえも、ほかの何かと比べることで浮かび上がってきたりする。だから、別の世界を知っている人の目線は貴重だ。そして、なるべく公平で客観的であろうとするなら、観察者の数は多い方が心強い。

 幸い、今の私は心がけ次第でそれができる立場にいるし、(勘違いが原因とはいえ)ラフカディオ・ハーンの「心」から100年ごしの洞察も借り受けることができる。偉大な先達の遺した日本へのまなざしを、自分が海外で紐解くなんて、稀有な経験だ。

 実は、「KOKORO」という言葉がタイトルにそのまま残っている理由も気になっている。heart,corazón,alma...そのどれでもない「こころ」ってなんのことだろう。ひょっとしたら、何か思いがけない発見があるかもしれない。

 そんなわけで、大げさかもしれないけれど、この先やるべきことのひとつが降ってきたような気がしている。