がんばるせろな(仮)

夫のバルセロナ留学についてきた30代。コロナ禍のスペインをじたばた生きてます

ギアチェンジする脳②混沌の果てにあるもの

 最近、英語とスペイン語(と、まれにカタルーニャ語)と日本語を織り交ぜて会話やテキストメッセージを交換することが増えた。そこで困るのが、英語とスペイン語の混線だ。英語で書いていたつもりが一部の単語だけスペイン語になってしまったり、逆にスペイン語で書いていたのに英語に変わっていたり。自分でコントロールできないほど混沌としていて、この先が心配だ。

 混沌といえば、思い浮かぶことは2つ。「荘子」の一節と、宇宙のことだ。中国の寓話では、「混沌」という存在が、秩序や知性を与えられることで個性を失い、存在としてある種の死を迎える。一方、今あるこの宇宙は、カオス的インフレーションからビッグバンに至り、地球や生命が誕生したという。だとすると、混沌の先には、沈静化と進化の2つの未来があるように思える。(秩序と大崩壊かもしれないが)。

 これに無理やりなぞらえるなら、常に日本語か英語という補助輪がついたスペイン語になるか、未知の何かが開花するか…。

 英語の補助輪付きという状況は、学生時代に一度経験している。おそらく、このまま何もしないでいると、また英語で考えてスペイン語に翻訳して話すか、スペイン語を英語に逐語訳するようにして理解するかになるだろう。同じ轍を踏まないために、今の状況と思っていることを記録しておく。

 

 語学学校に通い始めて5週間め。授業で教わってクラスメイトがみんな知っている表現なら、英語よりスペイン語を使う。全員が共有している知識だから、安心して言える。でも、細かい話をするには語彙も文法も足りない。だから、英語の中に知っているスペイン語を混ぜる形になったり、難しい話になると英語に切り替えたりする。そんなクレオール言語的な話し方が当たり前になってしまっている。

 私の中にある「これが言いたい」の正体は、英語モードの時とスペイン語モードの時は似ている。手近にある表現に頼ろうとするとき、それがどちらの言語かは一旦脇に置いてしまっていると思う。片方の言語でしか表現しえない概念もあると思うけれど、私はまだそのレベルには達していない。

 そして、アルファベットを書く=英語を書く、という認識が染みつきすぎている。これは…外国語といえば英語、という世界で生きてきたからだろう。スペイン語のつもりが、手癖でついつい英語になっているということが特に多い。言語どうしを似ていると迂闊に言えない…と書いたばかりだけど、英語とスペイン語で少しだけ違うスペルの単語があると顕著だ。座学だけでスペイン語は身につかないとはわかりつつ、英語にかけた時間が長い分、多少意識しなければ…と思う。

 

 何かを伝えたいと思う相手がいることも、その手段として2つないし3つの言語という選択肢があることも、悪いことではない。でも、そのやり方が通用するのは、相手も同じような言語レベルであるか、必死に理解しようとしてくれている場合だけだ。

 現段階では、コミュニケーションの手段として割り切れれば、クレオール的になってもやむを得ない面もあると思う。しかし、真摯に学ぶ場面とはきちんと切り分けなければいけないと、より強く思う。

 ほかのクラスメイトも似たようなことを考え始めたのか、意欲の高い子を中心に少しずつスペイン語で話そうという空気になってきている。授業中も、スペイン語で話そうというルールが強化された。カオス状態が、そろそろ終わりに向かっている。

 せっかくはじめからやり直しているのだ。学生時代の後悔を帳消しにできるのか、ここが勝負所!

 

canary-limon.hatenadiary.com